トットちゃんは、日比谷公会堂に、、バレーの“白鳥の湖”を見に連れて行ってもらった。それは、パパがヴァイオリンで“白鳥の湖”のソロを弾くからと、とても、いいバレー団が踊るからだった。
トットちゃんにとって、バレーは初めだった。
白鳥のお姫さまは、キラキラ光る小さい冠を頭にかぶって、本当の白鳥のように、軽々と空中を飛んだ(ように、トットちゃんには見えた)。
王子さまは、白鳥のお姫さまを好きになったkら、そうじゃない女の人は、誰がなんと言っても、「要りませーん!」という風に踊った。
そして、最後に、やっとのことで、二人で仲良く踊った。
音楽も、とても、とても気に入った。家に帰っても、トットちゃんは、ずーっと、このことを考え、感動していた。
だから、次の日、目が覚めるとすぐ、モシャモシャの頭のまま、台所で用事をしてるママの所に行って、いった。
「私、スパイと、チンドン屋さんと、駅の切符を売る人と、全部やめて、白鳥を踊るバレリーナになる」ママは、驚いた風もなく、「そう?」といった。
トットちゃんにとって、バレーを見たのは初めてだけど、校長先生から、イサドラ・ダンカンという、素晴らしいダンスをするアメリカの女の人の話を、前から、よく聞いていた。
ダンカンも、小林先生と同じように、ダルクローズの影響をうけていた。
尊敬する小林先生が好きだというダンカンを、トットちゃんは当然、認めていたし、(見たことがなくても)親しく感じていた。
だから、トットちゃんにとって、踊る人になる、という事は、そう特別のことでもないように思えた。
折も折、ちょうど具合のいいことに、その頃、トモエには、小林先生の友達で、リトミックを教えに来ている先生がいて、学校のすぐそばに、ダンスのスタジオを持っている、ということだった。
ママは、その先生にお願いして、放課後、そのスタジオでレッスンを受けるように、取りはからってくれた。
ママは、「何々をしなさい」とかは、決していわなかったけど、トットちゃんが、
「何々をしたい」というと、「いいわよ」といって、別に、いろいろ聞かずに、子供では出来ない手続きといった事を、かわりにやってくれるのだった。
トットちゃんは、一日も早く、白鳥の湖を踊る人になろうと、ワクワクして、そのスタジオに通った。
ところが、その先生の教え方は、かわっていた。
トモエでやるリトミックの他に、ピアノやレコードの音楽にあわせて、「お山は晴天」とかいって、ぶらぶら歩いていて、突然先生が、「ポーズ!」
というと、生徒は、いろんな形を自分で作って、その形で、静止をするのだった。
先生も、ポーズのときは、生徒と一緒に、「アハ!」というような声を出して、「天を仰ぐ恰好」とか、ときには、「苦しんでいる人」のように両手で頭を抱えて、うずくまったりした。
ところが、トットちゃんのイメージにあるのは、キラキラ光る冠と、白いフワフワした衣裳を着た白鳥であって、「お山は晴天」
でも、「アハ!」でもなかった。
トットちゃんは、ある日、勇気を出すと、その先生のそばに行った。
先生は男だけど、頭の毛の前髪を、おかっぱのように切っていて、毛も少し、縮れていた。トットちゃんは、両手を大きく広げ、白鳥のように、ひらひらさせながらいった。
「こういうの、やんないの?」
鼻が高く、目が大きく、立派な顔の、その先生は言った。
「僕の家じゃ、そういうの、やんないの」 ……それ以来、トットちゃんは、この先生のスタジオに、だんだん行かなくなってしまった。
確かに、バレーの靴も履かず、はだしで飛び回って、自分の考えたポーズをするのも、トットちゃんは好きだった。
でも、キラキラ光る小さい冠を、どうしても、かぶりたかったんだもの。別れ際に先生はいった。
「白鳥もいいけど、自分で創って踊るの、君、好きになって、くれないかなあ」
この先生が、実は、石井漠という、日本の自由舞踊の創始者であり、この、小さい町に止まる東横線の駅に、「自由が丘」という名前をつけた人だ、などということを知ったのは、大人になってからのことだった。
それにしても、当時五十歳の、この石井漠は、小さいトットちゃんにも、心をこめて、「自由に踊る楽しさ」を教えてくれようとしたのだった。
小豆豆让妈妈领着到日比谷公共会堂去看芭蕾舞《天鹅湖》。这是因为《天鹅湖》里将有爸爸的小提琴独奏,而且参加演出的是一个非常出色的芭蕾舞剧团。小豆豆还是第一次观看芭蕾舞。那白天鹅公主头上戴着一顶鸩硬拥小巧玲珑的凤冠,简直就象一只真白天鹅在空中轻松自如地翱翔(在小豆豆眼里就是这样看的)。王子的舞蹈表示他已经爱上了白天鹅公主,所以对公主以外的其他女子,任凭别人怎么劝说,都坚决“不要”!最后二人好不容易才在一起很亲密地跳起了舞蹈。音乐也非常非常令人开心。甚至回家以后小豆豆还一直想着这场芭蕾舞剧,心中久久不能平静下来。因此,第二天早晨刚一睁眼她就蓬头散发地跑到正在厨房干活的妈妈身边,说道:
“我想好了,间谍、广告员、车站的检票员,这些我全都不干了!我要当跳白天鹅的芭蕾舞演员!”
妈妈并不感到吃惊,只是说:
“是吗?”
对于小豆豆来说,虽然看芭蕾舞还是第一次,但以前就多次听校长讲过,美国有一个女舞蹈家,名字叫依莎德拉·丹简,她的舞跳得非常漂亮,和小林校长一样,丹简接受了旋律教育法的影响。自己尊敬的小林校长都说很喜欢丹简,小豆豆本人当然就更对她肃然起敬了,即使从来没有见过面,也觉得感情上和这位女舞蹈家很亲。所以在小豆豆看来,自己要当一个跳舞的人也是很正常的。
说来真巧,刚好最近巴学园来了一位教旋律乐的老师,他是小林校长的朋友,在学校旁边有一所舞蹈练功房。于是妈妈就请那位老师帮忙,允许小豆豆每天放学后到那所房子里接受训练。妈妈决不自己开口说“你要做什么什么”,但只要小豆豆说出“想干什么”,妈妈马上答应,从不多问,并替她办好孩子们无力解决的手续。
小豆豆开始到那所练功房去接受训练了,她压抑不住内心的兴奋,恨不得明天就能成为跳白天鹅的人。可是,那位老师的教授方法却有点古怪。除了在巴学园做的旋律体操外,有时正伴随钢琴或唱片里的音乐轻松自在的走着“山上晴天”的舞步,老师突然叫了一声:
“停!”
学生们就以各自正在做的各种各样的姿态形成一个静止的动作。与此同时,老师也大叫一声“啊哈”和学生们一起做出“翘首望天”的姿势,或者双手抱头蹲下身去,做出一副“痛苦之人”的样子。
然而小豆豆脑海里的形象却总是那只头戴闪光桂冠、身穿轻飘飘白色衣裳的白天鹅,既不是什么“啊哈”,也不是什么“山上晴天”。
有一天,小豆豆鼓足勇气来到那位老师跟前。老师虽然是位男子,额前的头发却剪得跟女孩子的刘海差不多,而且还有点卷曲。小豆豆把两臂张开,象天鹅似的一扇一扇的说:
“不跳这样的舞吗?”
只听这位高鼻梁、大眼睛、面庞漂亮的老师说道:
“在我这儿,不跳这样的舞。”
……从那以后,小豆豆慢慢地就不再去这位老师的练功房了。说起来,对于那种不穿芭蕾舞鞋、赤着脚一圈一圈飞跑着做出自己想象动作的练习,小豆豆也确实还是喜欢的。但她毕竟更向往戴上那顶美丽的凤冠。临分别时老师对小豆豆说:
“跳天鹅也很好,但若是跳自己编出来的舞蹈,你恐怕会更加喜欢的吧?”
小豆豆长大以后才知道,这位老师原来就是日本自由舞的创始人,名字叫石井漠,正是他给这条小街上的东横线命名为“自由冈”的。尽管小豆豆就要离开了,这位当时已经五十岁的石井漠老师却仍在真心实意地想把“自由起舞的乐趣”告诉给年纪尚小的小豆豆。 |